答申書 |
第2部:第3章
我が国におけるダンス文化の現在〜多様化:ファッション化・個別化〜1.ダンス文化の変遷
(1)江戸期のダンス文化
上流階級の舞と庶民の踊りに分かれて発展してきた我が国の舞踊は、前者は貴族や武士のたしなみ・教養として、後者は庶民の娯楽として伝承されてきた。江戸時代後期になると、舞と踊りは芝居や歌舞伎、あるいは神楽などにも取り入れられ、統合された新たな舞台舞踊が舞踊文化として形成された。
産業化と近代化を急進的に進める政府は、洋舞の導入と奨励には力を注いだが、歌舞伎や盆踊りのような大衆文化としてのダンスを低俗的な遊芸とみなし、自由間達な舞踊表現を抑圧した。また、邦舞においても、和魂洋才の方針に基づく伝統遵守の圧力がかけられ、静的な動きによる内面美を探求することが良しとされた。このため、歌舞伎などの舞台ダンスは、照明や舞台装置などの技術面では西欧化が進んだが、その表現や動きは著しく形式化されたものとなった。この傾向は邦舞・民舞一般についても同様であった。
生活様式が近代化するなか、洋舞はモダンダンスから強い影響を受け、先駆的な創作舞踊家が出現して芸術志向が強くなった。また、舞台ダンスでは、ショーダンスやレビューが発展し、浅草オペラ、宝塚や松竹少女歌劇団に代表される舞台ダンスが都市での新たな娯楽として庶民に楽しまれた。邦舞は、好景気によって生まれた新たな富裕層に支持されて発展したが、歌舞伎も日本舞踊も役者の世界である梨園と、芸者の世界である花柳界を基盤にするものとなった。また、ボールルームダンスは女子の教育として評価され、一部の高等教育機関に取り入れられた。
大戦期はダンスにとって受難期であった。戦争は踊る楽しみや喜びを否定し、わずかにマスゲームや集団的音楽体操などがみられる程度であった。しかし、敗戦とともに訪れた民主化の波は、ダンスのエネルギーをいっせいに解放し、レクリエーションとしてのフォークダンス、芸術としての創作舞踊、地域社会における行事としての盆踊りなど、多様なダンスが生活のなかで復興、発展した。特にソーシャルダンスはダンスパーティーを通じて広く学生層の支持を得て発展し、競技会を開催するまでになった。 |
2.ダンス文化の現在
(1)パフオーミングアートとしてのダンス
能、狂言、歌舞伎や日本舞踊は、伝統芸能として尊重され、舞台芸術の重要な領域に位置づけられた。その結果、主として、その道を志す専門家集団によって担われるものとなり、芸術化の傾向をいっそう強めた。
産業型ライフスタイルが進展するなか、民俗行事として親しまれてきた神楽や盆踊りなどは著しく衰退しレクリエーションとして楽しまれたフォークダンスも低調となった。代わって、ショーダンスやレビューダンスがさまざまなイベントなどでさかんに用いられるとともに、ディスコダンスやブレイクダンスのようなリズム系ダンスが盛況となり、若者文化の一領域を形成している。 |
3.市民生活におけるダンス文化の状況
(1)多様化とファッション化
市民生活におけるダンスは、これまでのものに加えて、リズム系ダンスや健康系ダンスが台頭し、気晴らし・娯楽や健康づくりから前衛芸術に至るまでの実に多様な状況となっている。しかし、この多様性のなかにあって、たとえばディスコブームに象徴されるように、一時的なファッションとして消費される傾向も強まっている。
時代の転換を背景にして、「諸芸術の母」としてのダンスには大きな期待が寄せられている。そのため、一部のダンスは、パフォーミングアートとしての前衛的芸術志向をいっそう強める傾向にある。総合芸術としてのダンスの発展は大いに歓迎すべきことであるが、それが一部の専門家の理解と支持にのみ頼るものとなる場合には、ダンス文化が芸術至上主義に陥る危険性が生じる。
若者文化として隆盛しているディスコダンスやブレイクダンスなどのリズム系ダンスは、基本的には個人的な踊りである。また、エアロビクスダンスやジャズダンスなどの健康系ダンスも、本質的には個別的なものである。これらは、個々人にとってはきわめて大きな生理的・心理的効果を有するものであり、その意義は高く評価されねばならない。しかしこのことは、ダンスが民族や共同体の踊りから個別階級や階層の踊りになり、さらに個人の踊りに向かう個人化・個別化への傾向を表してもいる。つまりダンス文化は、こうした変遷のなかで、ある意味でその共同的・社会的意義を衰退させているのである。 |
4.我が国におけるポールルームダンスの現状と課題
| (1)世界におけるポールルームダンスの変遷 1.ボールルームダンスの発祥と確立
17〜18世紀にかけて、ヨーロッパの荘重典雅な宮廷舞踊は、鑑賞用のショーダンスと集会者が互いの交流を楽しむダンスとに分かれた。前者は舞台ダンスとしてのバレエに、後者はメヌエット、カドリーユなどの曲に乗ってパートナーとともにゆったりと踊るダンスヘと発展した。フランス革命後、軽快なワルツに乗ったダンスが大流行し、このパートナーと組んで踊るダンスは、多くの名曲の誕生に伴って発展し、ボールルームダンスが確立した。
20世紀に入ると、世界各地に普及したボールルームダンスは、豊かな国際性と庶民性をもつようになった。まず米国で、踵から脚を運ぶフォックストロットが工夫されきわめて踊りやすくなったのを皮切りに、黒人の即興的な音楽であるジャズからはチャールストンが、哀愁に満ちた黒人霊歌からはブルースが、アルゼンチンでは情熱を秘めたタンゴなどが工夫され、諸民族の多様な音楽に特有のリズムと情緒を生かした国際色豊かなダンスへと発展していった。さらにキューバではルンバ、マンボ、チャチャチャが、そしてジャズ音楽のスイングからジルバが開発された。こうして、ボールルームダンスは、今日の洗練された世界文化へと発展してきたのである。
いずれの文化も、その内容と様式が確立、洗練されるに従って、できばえの優劣が評価され、その技能が公開の場で試されるようになる。従って、国際色豊かな内容をもち、世界文化にまで発展したボールルームダンスが、広がりと同時に深められ、高められていくのは当然であった。1920年には早くも、英国と米国との間でフォックストロットの対抗戦が行われ、1922年には、ワルツの世界選手権も開催された。こうして、ボールルームダンスは競技としても広く楽しまれるようになったのである。 1.明治期のボールルームダンス
開国とともにボールルームダンスは日本に移入され、1867年、最初の舞踏会が東京浜離官の延遼館で行われた。1883年には、欧化主義の象徴として有名な鹿鳴館が日比谷に建てられ、諸外国の高官を招いて政治家や官僚による舞踏会が催された。そこには、舞踏会を通じて日本近代化の一側面を見せることにより通商条約の改正を有利に進めようとする意図があった。また、総理大臣官邸でも、同様の趣旨で舞踏会が頻繁に催され、華族、政府高官、学識者などの当時の名士が集い、ボールルームダンスに興じた。
1918年に、横浜鶴見の花月園に最初のダンスホールがオープンし、バンドあるいはレコード演奏に合わせて踊るボールルームダンスが復活する。これを契機に、東京や大阪などの大都市にダンスホールが次々と誕生して大いに賑わい、ボールルームダンスは一つのブームになった。ダンスホールは当初、同伴した異性と踊りを楽しむ場であったが、その後、男性客が入場券と引き替えにホールが用意している職業女性ダンサーと踊るとういうスタイルのものとなった。つまりそれは、男尊女卑の社会的風潮を反映して、男性が入場料を対価として職業女性ダンサーを相手に踊るものであり、男性が一時的ななぐさみを得るものであった。このことによって、“両性が平等なパートナーとして踊り、交流を楽しむもの”というボールルームダンスの本来の姿は著しく歪曲され、ボールルームダンスは不健康なものとみなされた。その結果、1925年には、ダンスホールが風俗営業法の対象とされ、未成年者や学生の入場が禁止されたのである。 3.昭和初期〜第二次世界大戦までのボールルームダンス
昭和に入っても、ダンスホールは数少ない男女交際の場・社交場として人気を得ており、国華、ユニオン、帝都、フロリダなどの有名なダンスホールが相次いでオープンし、最盛期にはその数は300にまで達する盛況をみせた。また、ダンス教習所も次々と誕生し、1930年には、JATD(日本舞踏教師教会)が設立され、ボ一ルルームダンス指導の研究も進められた。
1946年、終戦の翌年には早くもダンスホールが復活し、抑圧から解放されたボールルームダンス愛好者が集い、楽しむようになった。そして、民主化とともに生まれた新たな男女関係のあり方を背景に、ボールルームダンスは学生層の間で急速に広まり、1950〜60年代に大ブームとなったのである。 1.ボールルームダンス愛好者の現状と課題
我が国におけるボールルームダンス愛好者の数は、余暇開発センターの「レジャー白書2000」による洋舞愛好者からみれば、多く見積もっても180万人程度とみなされる。その数は、昭和52年の450万人をピークに年々減少しており、歯止めがかかる兆しはみえない。
洋舞愛好者の享受状況を回数と費用の面から捉えてみれば、回数では、年間平均46.8回でほぼ週1回という割合を示し、趣味・創作部門においては機器による音楽鑑賞に次いで第2位、スボーツ部門でも体操に次いで2位である。費用は、年間平均86,400円であり、趣味・創作部門では第1位、スポーツ部門でもゴルフ、海洋スポーツに次ぐ第3位の位置を占める。
人々がボールルームダンスを楽しむ環境ははきわめて限定されている。その多くはダンス教習所であり、不慣れな者は気軽に立ち寄ることが困難であるとともに、経済的負担も少なくない。また、ダンスパーティーも単に衰退しているだけでなく、そこでの踊りはリズム系のダンスが主流となっている。公共施設利用によるサークル活動はきわめて熱心であるが、楽しく踊って自由に交流を楽しむというよりは、指導者に教わり習うスタイルが主流であり、開放性と広がりに欠ける。このような環境にあっては、未経験者が気軽に取り組むことはきわめて困難であり、こうした享受環境の未整備がボールルームダンスの普及、振興の大きな妨げになっている。
国際競技会では、ブリティッシュ・カウンシルが公認する全英ダンス選手権がもっとも権威ある競技会とされ、JBDF(日本ボールルームダンス連盟)の代表競技者が例年参加して上位入賞を果たしているアマチュアの競技会では、IDSF(国際ダンススポーツ連盟)主催の世界選手権大会などがあり、JDSF(日本ダンススポーツ連盟)の代表競技者も出場しているが、70〜80位前後の成績である。このように、わが国のプロとアマの競技水準には大きな差がみられる。
ボールルームダンスは移入文化であり、また、学校教育で本格的に取り上げられなかったこともあってその指導はダンス教習所の教師を中心に進められた。その結果、ボールルームダンス組織も教習所および教師中心に構成され、さまざまな団体が乱立していた。しかし、1950年には社団法人日本社交舞踏教師協会が設立され、同協会を中心として、同年に日本舞踏競技連盟が誕生する。1976年、同連盟は日本競技ダンス連盟と改称、さらに1992年には、財団法人化を契機にして、JBDF((財)日本ボールルームダンス連盟)の名称を用いることになった。しかし、この財団化の過程で、JDC(日本ダンス議会)が、さらにそこからJCF(日本プロフェッショナルダンス競技連盟)が任意団体として分離独立する。この意味で、日本のボールルームダンス組織は多岐にわたって分化し、一元化とはほど遠い未整備の状況を呈している。・
ハイテク文明とIT(情報技術)革命が進展するなか、エコロジー、環境、共生などがテーマとなる21世紀の市民生活において、ボールルームダンスがもつ文化的意義はきわめて大きい。ボールルームダンスは、健やかな生、豊かな交流、伸びやかな自己の開発を求めて歩む人間的熟成に向かうライフスタイルの創造に対して、大きく貢献しうる可能性を有しているからである。 |





